Diary of a Madman

癲狂院に置かれた或る一冊のノートブック
狂気の記憶が焼き付いた、深淵なる倒錯の記録の数々。
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谷崎作品とファムファタル

 前回の続きです。


..........前々から思っていたのですが、ウィキペディアの「春琴抄」の解説はやっぱり解せません。両目を針で突き刺し自ら盲目となったのは「つまり佐助(谷崎)は、自らのマゾヒスティックな趣向を満たしてくれる女性を必要としているだけであって、献身自体が目的であるわけではないのである。」とはやっぱり思えないのです。「春琴が年を経るうちに軟化してきたことに対し佐助が拒絶を示している」とも思えません。もしもマゾで嬲りものにしてほしいと思うのならば、春琴を煽り煽って怒らせた方が手っ取り早いはず。

 しかも、いくら谷崎の自叙伝的な作品「異端者の悲しみ」で己のマゾヒズムの欲望を叶えてくれる情婦を探し求め歩いたとはいえ、佐助が谷崎自身とは思えません。...........よく、谷崎自身がマゾだということが周知の事実であるからと、作品全般において単にマゾな作品だと決めつけるのは短絡的な気がします。


 自虐の上での愛情.......そういうふうに思うんです。たとえば運命の女神に翻弄されても.......つまり宿命の女=ファムファタルだったとしても、自らが破滅の運命を辿ることになっても、それに気づいていたとしても、宿命の女と対峙するには、それしか方法がないのだと...........個人的にはそう思っています。それこそが宿命の女の愛情に応えられる唯一の方法でもあると......思います。虐げられ嬲りものにされるのが目的なのではなく、それが手段なのだと。

 たとえば、「宿命」の女に身を滅ぼされるかといっても心中するわけでもありません。仮に同時に死ぬことになっても宿命の女は男の為に死ぬとは到底思えないからです。(......でもまあ死後の世界あるいは転生後でも、女は魔界の王女になるか亡霊かになって未来永劫、やはり転生した男にしがみついている、とかはありえそうですが。)男は自らの死をもって己の願いと欲望を応え、女はそれを愛情と受け止めるのだと思うのです。愛する運命の女神の御胸にその骸を委ねることで願いは叶うのです。..............怪談「牡丹灯籠」では、幾度の前世から宿命づけられていた男女が、女は亡霊となって生身の男へ通いそして男は骸に成り果てる........ただし登場する男はそのランデヴーを拒否していましたが。w 

 悪女と宿命の女はそこが違うと思います。悪女はおそらく永遠に虐げるままかもしれませんが、宿命の女には男の破滅の代わりにきっと褒美を与えるはずです。(とはいえ女は男が破滅するとは思っていないかもしれませんが。) 勝手に男が死んだだけ.....と思うのは悪女なだけで、宿命の女は宿世に定められた運命が流れる血を身体で感じ、差し出された骸を愛しく思っているはずです。ワイルドの「サロメ」などがその例ですね。


 話はそれますが、刺青も同じように思う時があります。
苦痛に耐え、(消すつもりがなければ)一生を背負う刺青を身体に彫り込むのです。あれをマゾだという人はいないでしょうが、「結果的に」自虐的な欲望であることには変わりはありません。同じく谷崎の作品「刺青」は、それに加えて宿命的なものを感じます。刺青師が女に見せた絵の通りに女は刺青を入れることによって覚醒します。多くの男の骸の上に立つ魔性の女に。故に観念的である作品だから、あの作品は大好きなんです。単に「刺青」の言葉を引用するだけの作品とはそこが違うのです。

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